第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


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 08 北海道SF論 第二回 空虚としての饒舌――筒井康隆『歌と饒舌の戦記』(新潮文庫)(上)


   1

『歌と饒舌の戦記』は、『文学界』に一九八六-一九八七に掲載された「純
文学」作品である。とはいえ、内容としては、一九八〇年代に大流行してい
た「戦記もの」「戦記シミュレーション」のパロディである。
 筒井は以前に『おれの血は他人の血』(七四)で、ハードボイルド小説の
パロディを行っていた。それぞれの組織同士を争わせ、銃撃戦が起っていく
という「敵対性」をパロディ化させる試みとしては、『おれの血は他人の血』
の延長に位置づけられる作品ではある
 北海道をソ連が占領し、そして日本側はゲリラとなって闘うという設定の
この「架空戦記」は異様と言うしかない。まず戦争が始まる動機は「面白そ
う」だからである。ソ連とアメリカの両トップが会談で「面白いことするの
今のうちかもしれなよね」「攻めこんでみるか。驚くだろうなあ。面白えな
あ。ふふふふふ」という、両者の「メリット」を度外視した「面白いから」
という理由で戦争が始まる。そしてソ連は北海道に攻め込み、「北海道人民
共和国」を建設することになる。イデオロギーと、革命=戦争の問題を扱う
のに、北海道という場は恰好の場所であったと言えるだろう。(なにせ、小
林多喜二や石川啄木などのプロレタリア文学運動盛んなりし土地として文学
的には記憶される場所であるのだから)
 そしてそれに応じるゲリラの側も、決して「愛国心」などをベースにして
いるわけではない。サバイバルゲームのマニアたちが、実弾でサバイバルゲ
ームをやろうとしていたところ、たまたま戦争が始まったので、面白そうだ
から参加するだけである。「実弾でどんパチやるのはさ、そりゃあ快楽です
よ。ほとんど射精の快楽だけどさ」(p22)という箇所には、銃撃と射精の快楽
の共通性(生の欲動=死の欲動という認識)が語られている。これは男性だ
けではない。
「わたし戦争の間中、快感を感じてのぼせっぱなしだったわ」(p247)と作中
の女性は語る。その戦場は「あそこは自分が死んでもいいと思っている、阿
呆の、阿呆による、阿呆のための祝祭空間だ」(p137)と登場人物の一人に評
されもする。
 四五人の登場人物たちが、この戦争の中で「ドタバタ」を行う。網走刑務
所から出てきた高倉健そっくりの男は、レポーターの日野みどりを隊長にゲ
リラとなるが、そのゲリラたちはほとんど連合赤軍のパロディとなり、総括
を繰り返したり「党派観念」にとりつかれたりする。
「革命」と「戦争」が主題となり、様々な形でイデオロギーなどが衝突する
本作は、『ジャズ大名』を強く想起させる。「衝突」の祝祭性の中で、
「歌」と「饒舌」が現れる。「歌」に関しては楽譜まで登場するが、この
「歌」は前述の「楽器としての笑い」の変奏であると考えられる。北海道と
いう、「領土」や「民族」「イデオロギー」などの問題を潜在的に抱えてお
り、虐殺の歴史を背負っている「政治的」な場であるからこそ、この「笑い」
は鋭い効果を及ぼす。
 そのことを明瞭に示す台詞を引用しよう。
「おれなんかもう、なんだって平気で喋れるようになっちまった。だってさ、
おれの喋ることばなんてものは、どうせおれの言おうとしている意味からす
り抜けてどっか手の届かないところへ行っちまうんだもんね。だとしたら、
本当のこと喋った方が嘘と思われる確率が多くて、つまりは本当のことなど
ひとつも言ってない結果になって、得なんだよ。あのう、おれのこのお喋り
の方法だったらさあ、政治的問題すべて回避できると思いませんかあ。つま
り不死身なんだよね。信念と信念の間をこう、軽くすり抜けてさあ。あっ。
でも信念なんてあるのかなあ。走っているつもりの政治的モデルと政治的モ
デルの谷間が、実は何もない空間でもって全部剥き出しの見え出しの、じゃ
ない見え見えの丸剥きの」(p250)
『ジャズ大名』が「楽器としての笑い」で「敵対性」を浄化しようとしてい
たのだとすると、この小説は「饒舌」によって政治的問題を「回避」して
「すり抜ける」という企みの小説である。
 この小説の特異な性質は、このシミュレーション世界=小説世界が、パソ
コンゲームと類比的に語られているという点だ。作中のパソコンゲームの展
開どおりに、小説内の戦争が進んでいく。小説世界もまた記号によるシミュ
レーションであるが、パソコンゲームという情報によるシミュレーションと
重ねあわされた上で入れ子になっている。「多くの人が現実の戦争を嫌って、
あのゲームの中に逃避してしまっている」(p119)などと作中人物は嘆く。
 この「シミュレーション」や「パソコンゲーム」と重ねあわされるような
感覚は、まさに北海道の設計の感覚と似ている。この小説はほとんど風景描
写もなく、北海道であることを示すのは「地名」という記号ぐらいだが、そ
の薄っぺらさが逆説的に北海道のリアリティを醸し出しているように思われ
る。国木田独歩が「空知川の岸辺」で描写したような、よそから来て勝手に
価値を発見して大袈裟に謳い上げるような押し付けがましさがないのだ。生
活感覚として、車などで、目的地から目的地へ移動する場合、風景などはろ
くに目に入らないし、重要なのは出発点と目的地の「名前」だけだろう。そ
のような、いわゆる自然主義リアリズムではない「リアル」がこの書き方に
よって生じている。それは、現実世界や過程に存在する豊饒さを認識するこ
となく、「目的地」などの「記号」として貧しくしか認識できなくなった主
体の感じる、自然主義的リアリズムとは異なるリアルを表現している。
 このような「記号化」は地名や地理にだけ及んでいるわけではない。本作
には日本SF作家クラブの総会のシーンがあるが、筒井康隆、小松左京、かん
べむさし、田中光二、新井素子らが実名で登場し、カリカチュアされた「記
号的人物」(キャラクター)として描かれる。それはその人物のメディアで
流通しているある側面だけを肥大化させた人物であり、生身の「筒井康隆」
や「小松左京」「田中光二」「新井素子」という人間の持っている、大袈裟
に言えば無限に等しい豊饒さや複雑性を削減させた人物である。「キャラク
ター」として人間を認識する現象がもし仮にポストモダンに特有なものであ
るとすれば、ここにあるのは確かにポストモダンである。それは土地(世界)
も人物(キャラクター)も「記号」として簡略化して認識されてしまうよう
な(超越論的)主体の見る「現実」なのである。
 このような「描写」は「目的」と「過程」についての思想と共鳴しあって
いる。例えば、ゲームについて、別の登場人物はこう言う。
「それが最近絶望してるのよね。あの『スーパー・マリオ・ブラザーズ』以
来だわ。みんな、あのての攻略本が売れるもんだから、出版社とタイアップ
して必要以上にゲームを難解にしようとしてるのよね。隠れキャラクターと
か得点のアップの仕掛けで埋め尽して。(中略)結局子供はさ、ゲームの過
程を楽しむ余裕なんかなくしてるの。いかに多くのゲームの正解を知ってる
か、自慢しあってるのよ。友達に遅れないために手っとり早くゲームの全貌
と隠れキャラクターに精通する必要があるのよね。子供の世界はきびしいの。
自分で発見するなんてのんびりしたことしていられないのよ。それで攻略本
が売れるの。悪循環だわ。(中略)大人がやってくれればいいのよねえ。大
人でも楽しめるような凄いゲーム、何か考えられないかしら。なまなましい
戦争ゲームとか」(p44-45)
(「中」に続く)


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