第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


申込み 交通 スタッフ募集 企画募集 ディーラーズ 質問と回答

星雲賞投票受付終了

  • 星雲賞の投票受付は終了しました。
    皆様、投票有難うございました。

プログレスレポート


北海道SF大全


オプショナルツアー

   ・植松電機ツアー定員に達したため募集終了。

ゲスト


広告スポンサー募集!


その他

運営スタッフ紹介


リンクバナー
リンクバナー


リンク

こいこん(第52回/来年)
第52回 日本SF大会 こいこん


ドンブラコンL(第50回/去年)
第50回 日本SF大会 ドンブラコンL


北海道SF大全

 09 北海道SF論 第二回 空虚としての饒舌――筒井康隆『歌と饒舌の戦記』(新潮文庫)(中)


(承前)

 ここで論じられているのは「結末」ではなく「過程を楽しむ」ということ
である。この作品の、テーマや物語を回収させたりクライマックスなどを用
意したりせずほとんど理解不能かつ唐突な作品の終わり方は、そのような
「目的」や「結末」を求めて作品の過程を楽しむことのない読者に対して、
そのことを思い出させるための効果を担ったものである。
 本作がより深いところで提示している問いは、子供よりも大人の方が「ゲ
ーム」を求め、それが「戦争」である、というのは何故なのか、ということ
である。戦争自体が快楽であるとしたら、それを現実ではなく虚構の中で求
めてしまう我々の心性それ自体をテーマにした超虚構である、とも言える。
 ゲームの世界は、実際に、現在ではFPSなどの戦争ゲームがかなり多く
のシェアを占めている。『コール・オブ・デューティ』シリーズや『メタル
ギア・ソリッド』シリーズが全世界で何千万本も売れる。戦場を疑似体験す
る殺戮ゲームが次々と作られ、消費されていく。これは筒井康隆が何かを
予言していたということではない。ゲームの中に人間が何を求めるのか、
あるいはフィクションの中で人間は何を実現させようとしているのか、現
実世界で抑圧される「敵対性」や「攻撃性」が「攻撃衝動」となって「文化」
の中で昇華されるというフロイトの考えを元に、筒井が本質的な思考をして
いたということに過ぎない。ただ、筒井が本作で示した可能性を、後の戦争
ゲームはほとんど継ぐことはなかった。
 本作示した「可能性」は、この「敵対性」の快楽を他の方向に逸らす技法
である。それは、「戦争ゲーム」があくまで「フィクション」であることを
露呈させながら、その快楽自体を自覚的に体験させ、その上で、敵対性やイ
デオロギーの対立をそのまま放置し、一切のカタルシスも調和もないまま、
「饒舌」の記号の中に呑み込んでいくということである。
 本作は『歌と饒舌の戦記』である。同じく政治的テーマを扱った『ジャズ
大名』が「楽器としての笑い」を表そうとしていると以前に書いたが、
「歌」はその「楽器としての笑い」に該当するであろう。では「饒舌」とは
一体何なのか――


  2

「饒舌が思考に先行する」(p62)と書かれている以上、この饒舌は思考に先行
している「記号」である。思考が文字を生むのではなく、文字が思考に先行
し、自走している状態がこの「饒舌」である。この「饒舌」はほとんど『虚
人たち』の全体のモチーフを会話の中に落とし込んだようなものである。
「それがさあ、むしろ喋らないとバテるのよな。おれ沈黙すると自分が自分
でないような気がして不安になってさ、たちまちその不安でもって死んじゃ
うの。おれこうして生きてるのも、立って歩いているのも、すべてこれお喋
りのお蔭なのよな。つまり饒舌のエネルギイってものはコレステロールの消
費と同じでさ、この異常発酵の文明の中で見せかけの正常さを保つのに必要
なの。おれ自身と外部の世界を統括できるメタレベルというのが饒舌の中に
発見できるもんだから、それによって自分がアウフヘーベンされているよう
なされていないようなどっちでもないようなそんな気になるわけ。つまり他
者というのはおれにとって沈黙の神であって」(p102)
 この「饒舌」の中に「おれ自身」と「外部の世界」を「統括できるメタレ
ベル」が発見できるというのはどういうことなのだろうか。
 本作の「饒舌」は、自由連想法に極めて似た印象を与える文体で書かれて
いる。この「自由連想」的な文体は、フロイトの言う「機知」の印象を与え
る。音や字面、あるいは意味の近さなどで繋がっている言葉が、心的エネル
ギーの「節約」させ、「文章」が持っている文法やコンテクストなどの規則
から逸脱しているように見えるという効果がここにはある。「文法」に従わ
なければならない「言葉」の「勤勉さ」から「逸脱」すること自体の快楽を
この文体は現しているが、どうしてそれが「メタレベル」と関連するのか。
 例えばフロイトを援用し、「機知」は「夢の論理」と似ており、その
「夢」や「無意識」にはオブジェクトレベルとメタレベルの区別が存在しな
い、という言葉を用いれば、これは解釈できそうな気がする。しかし、「お
れ自身」と「外部の世界」を「統括できるメタレベル」が饒舌の「中に」発
見されると述べられている以上、この解釈は退けられなければならない。
 そもそも、「おれ自身」と「外部の世界」とは何か。いくつかの他の
「饒舌」も引用してみたい。
「もしお喋りのエネルギーを節約していたらもっとながく生きていられたか
もしれないというのに。いや。いやいやいや。それは違う。違いますよ君。
あべこべです。喋っているからこそ生きているのですよ君。小説家が小説言
語によって生きているのと同じで、相手のいないお喋りによって本来のお喋
りの機能以上のものが発生して、それによってこの苛酷な自然を脱自然化し、
異化しておるのです。だからこそこのおれはアウフヘーベンされて敢然と生
き続ける。いや。もしかするとわたしゃ死んどるのかもしれない。お喋りだ
けが生きているのかもしれない。でもそれは即ちわたしが生きているってこ
とに他ならないのですよ。こうした空虚なお喋りが空しいというのであれば
小説だって空しい。芸術だって空しい。人生だって世界だって、宇宙だって
空しいのです。もし空しくなかったら大変だ。すぐに行きどまりだもの。
だからこそ人間生きていられるんじゃないのかね」(p223-224)
 「おれ自身」とは、登場人物でもなければ、作者である筒井でもない。こ
こに書かれていることと、『虚人たち』の認識から敷衍するならば、それは
「言葉」それ自体である。もっと言えば、「自走していく言葉」それ自体で
ある。
 この「饒舌」は「空虚」である。しかし、それは肯定的な意味を持った
「空虚」である。「饒舌」の「空しさ」によってこそ、「行きどまり」がな
く、そのために人間は生きていられるのだとこの登場人物は語る。「言葉の
自走」の結果生まれるギャグや逸脱によって、「言葉の牢獄」に穿たれる何
某かの「空虚さ」こそがここで「メタレベル」と呼ばれているものであると
考えるべきである。(それは『虚人たち』で複数の「物語」の「間」にいた、
何でもない、「超虚構」としか呼ぶことができない領域とほぼイコールであ
る。)
「それによって自分がアウフヘーベンされているようなされていないような
どっちでもないようなそんな気になる」とあやふやであるのは、これは厳密
には「アウフヘーベン」ではないからだ。正と反、あるいは対立するものが
衝突して、合、すなわち第三の何かが生まれていく運動とは、これは決定的
に異なっている。諸対立に対し、ヘーゲルはこのような弁証法を考えたが、
筒井が提示するのは、それぞれの対立の「間」に穿たれるある「空虚」であ
り、その価値である。
 それぞれの敵対性が、それぞれに衝突するそれぞれの場の「合間」を走り
ながらその都度その都度「合」にさせないような「饒舌」を生み出していく。
その「饒舌」の中から「空虚さ」が生じ、その「空虚さ」の目線からそれぞ
れを相対化して見る場を得ることができる。
(「下」に続く)


Varicon2012実行委員会 事務局
〒173-0033 東京都板橋区大山西町16-7 1階
FAX: 03-6413-6422
E-Mail: mimori●varicon2012.jp
※spamメール対策のため、送信時は「●」を「@」に置き換えてメールください。