第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


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 10 北海道SF論 第二回 空虚としての饒舌――筒井康隆『歌と饒舌の戦記』(新潮文庫)(下)


(承前)
 本作において「物語」は「イデオロギー」と言い換えることができる。主
人公は作品の終わりの大饒舌で、こんなことを言う。
「あの資本論のノリはさあ、学術論文だろうと虚構だろうと、それがいかに
虚構虚構してて面白いかってことにしか関心もたない若い連中にとっては実
にノリまくって虚構やっちゃってるんだよね。スピルバーグやルーカスより
凄いんだから」(p249)。
『資本論』以外も、様々な思想的立場が本作では茶化されながら饒舌の中で
叫ばれる。
「はい。そっちはいかがですか。あいかわらずポスト・モダンですか。聞く
ところではアナル派なんてものがあるらしいですな。おれもアナル派なんだ
けど、アナル派のパラダイムって何だろうね。あのさあ。アナル・セック
スって、それほど知的なもんじゃあないすよ。肛門の文法の語形変化表。
どういう意味ですかねえ」(p250)
 このように、『資本論』に代表されるある思想的立場が「物語」である以
上、そのほかの、いわゆる「ポスト・モダン」に属する思想的立場もまた
「物語」として扱われるのだが、「ポスト・モダン」の思想は「物語批判」
なども含みこんでいるので、それ自体を「物語」として「相対化」するので
はなく、筒井は「饒舌で茶化す」という戦略に出る。
 「信念」=「物語」であり、その「間」を「走る」ことによって、それぞ
れの「物語」の背景にある下卑た側面を「剥き出し」にしてしまうこと。こ
のような「饒舌」によって「政治的問題」が回避できてしまう。そのような
「何もない空間」を開示すること……
 しかし、「茶化す」というのは有効な戦略なのだろうか。「批判」は対決
することで二項対立を作る。「物語批判」や「メタフィクション」もまた物
語化を生み出してしまう構造的必然はそこにある。
 そこで筒井が行った「空しさ」の領域を示す、「饒舌」はいかなる有効性
があるのだろうか。それを確認するために、作品の一番最後にある「饒舌」
を確認してみたい。
「あれっ。おかしいな急に喋れなくなったぞ。どうしたんだろう。剥き出し
の見え剥き。おかしいな。見え見えの剥き剥きの。まあいいや。そうした自
分の姿しかそこにないとしたら、これはやっぱり怖いのは自分といいますか、
自分の剥き向きの肛門と申しましょうか。あっ。アナル派ってそういう意味
だったの。いやですね。でもさあ、それだってやっぱり信念のモデルでしょ。
鏡ぎょうとしての、じゃない、鏡像としての世界に映っている虚業としての。
おかしいな。また喋れなくなった。なぜだろう。その恟恟としての鏡像のきょ
う門、じゃない肛門の兢兢としての世界。あれっ。恐恐としての。あれっ。
おかしいな。きょ、きょ、鏡像としての肛門……」(p251)
 ここで「饒舌」がよろめき、言葉がよろめいているのは、その「政治的問
題」の「回避」が困難であることの自覚によってである。「信念」の相対性
を剥き出しにさせるという、「間‐信念」的な「空虚」の露呈という超虚構の
戦略もまた一つの「信念」、すなわち「物語」でしかない。どんなに走って
逃げて相対化して茶化しても追いかけてくる「物語=虚構」により、「超虚
構」の試みもまた「虚構」にされ、そして「信念のモデル」として現実世界
での「政治的立場」に帰してしまうのだ。
 「楽器としての笑い」がもたらした「空虚」は充実した笑いに満ちた「ナ
ンセンス」であった。「饒舌」のもたらす「空虚」もまた、充満するイデオ
ロギーや政治的立場の息苦しさから抜け出す肯定的な「虚しさ」である。そ
の意味では、『ジャズ大名』で描かれた「楽器としての笑い」と本作の「空
虚としての饒舌」はほとんど重なるものである。しかし、『ジャズ大名』に
あった、それ自体が何の意味づけもなく価値であるという認識と比べ、本作
は、あまりにそれ自体の価値や意味について饒舌すぎる。その点が大きな差
異である。饒舌に自己認識や正当化を繰り返しているが、それが饒舌であれ
ばあるほど、弁護を行っている相手である「政治的立場」が重大なものであ
るという認識を読み手に与える。
 これは、「饒舌による空虚」によって政治的な信念の作り出す敵対性を回
避しようとする試みが成功したか否かという基準で測るならば、失敗である
と言うこともできる。しかし、この「実験小説」期の筒井康隆作品は、一作
ごとにあるテーマや手法を試し、その限界を発見し、そしてその限界からま
た次の作品を始めるという部分があり、その「限界」の発見こそが本作の
「成果」であるともいえる。また、「成果」として「成功」や「失敗」を問
うこともおそらくは間違っている。本作で何度も述べられているように、重
要なのは「過程」なのである。そのような実験を繰り返していく「過程」の
「軌跡」として、今我々には筒井康隆の膨大なテクスト群がある。その、テ
クストから遡って我々が仮構してしまう「筒井康隆」という「作者」の内奥
のドラマの「軌跡」として、そのテクスト群を解釈すること、そのこと自体
には「何故か」喜びが存在する。
 『文学部唯野教授』の中で、筒井は作中人物に、イーザーの「受容理論」
を説明させている。読者がテクストを読む(受容する)行為を理論化したイ
ーザーの論を説明する際、唯野教授は、文学作品の「不明箇所」を「空所」
と呼ぶ。その「空所」を理解しようと「想像力」を働かせ、読者は作品のテ
クストの断片を結びつけ、そして全体の首尾一貫した像を手に入れる。それ
は創造的な行為である。
 筒井作品には意図的な「空所」が多く仕掛けられており、読者のうちの何
パーセントかを「創造的な読者」にしてしまう力に満ちている。例えばこの
作品の結末に唐突にインディアンが登場するのは何故か。それは意図的な
「空所」であり、今あなたが読んでいるこの文章のように、「解釈」を行い
たくなるように誘っている。「空虚としての饒舌」はよろめいたときに、
「空所としての饒舌」と化す。ハナモゲラ語や、ナンセンスのような、「意
味を必要としない」笑いというよりは、意味に充填されることを周到に待ち
うけ、その意味が充填(=解釈)されるてしまった後にそれを「無意味」と
ひっくり返す可能性を潜在的に秘めた、悪意ある「空所」にである。
 その「悪意」はまた「魅力」でもある。しかし、同時に、作者の超越化に
繋がるという幾人かの批評家が批判した性質を持っていることも事実である。
ただ、このことは、そんなに簡単に批判可能なのだろうか? この「意味」
と「無意味」、「政治」と「音楽」が拮抗する緊張度の高い「空所」そのも
のの特異な可能性や、それ自体が生じる内奥的必然性を、我々はもう少し精
密に見ていく必要があるのではないだろうか。
 そうすることによって、初めて我々は「断筆宣言」を巡る「言葉狩り論争」
や、新聞に連載し、パソコン通信とも連動した『朝のガスパール』の意味を
理解することになるのではないだろうか。「断筆宣言」を巡る騒動は、筒井
康隆という作家の――もし仮にその作者がテクストから逆算して生み出され
る仮構だとしても――軌跡に深く潜り込み、その内在的論理の方向からアプ
ローチした上でないと、多くの賛同や批判を現代において吟味することはで
きないであろう。
 その吟味は、まるでネット社会を予言していたといいたくなる欲望を抑え、
稿を改め、慎重に行わなければならないだろう。(藤田直哉)


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