第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


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 13 北海道SF大全 第六回 三岸好太郎――知覚の開拓者――


 1・変転する画家・三岸好太郎

 北海道出身のシンガーソングライター・中島みゆきは、著書の『女歌』の
中で次のようなことを書いている。

 もともと多くの県から人々が流れ集まって構成された北海道では、誰がど
この出身者かなどということはさしてこだわりを示さなくて
(中略)
「あんたどこから来たのさ、へえ、遠いんだねェ」
 とホステスたちは話をきり出しながら、聞いた端から客の住所など忘れ捨
てていく。北海道での同族意識は、互いに旅人であるというだけで充分だ。

 この旅人としての同族意識、軽妙な同族意識は、北海道出身の画家・三岸
好太郎(1903-1934)にも確認することができる。さらに言えば、この流浪
者的な同族意識こそが、北海道SFを特徴づける重要な要素ではないかとい
うところから本論の推論をはじめたい。
 三岸好太郎という画家は、今日ではルオー風の道化師を描いた作品でよく
知られている(「道化」・「レビューの男」など)。しかし三岸の画業を
追っていけば、それが三岸のある一時期の画風に過ぎないということが、よ
く分かる。三岸は、アンリ・ルソー風のプリミティブな絵画(「レモン持て
る女」)で画壇に登場し、岸田劉生の風の写実的な絵画(「赤い肩掛けの婦
人像」)に移り、さらに上海旅行を経て一時期、東洋趣味にかぶれる(「支
那の少女」や「静物(水瓜とぶどう)」など)。しかしそれもすぐにかなぐ
り捨てて、ルオー風の道化師を描いた連作を発表する。この道化の連作は、
三岸としては比較的長く四年間、断続的に描き続けられる。その一方で昭和
七年(1932)の「巴里東京新興美術同盟展」や、昭和八年(1933)にドイツか
ら帰国した盟友の山脇巌の影響で、シュールレアリズムやドイツのバウハウ
スの影響を受けた作品を多数、発表するようになる。「のんびり貝」
(1934)や「ヒマラヤ杉と蝶」(1934)はシュールレアリズム的な作風の代表
作と言える。また、音楽会の雰囲気をリズミカルな線の集合と離散で描かれ
た「オーケストラ」(1933)や、単純な形態を組み合わせやリズムだけで見
るものを納得させようとする「コンポジション」(1933)は明らかにカン
ディンスキーの影響を受けている。カンディンスキーは音楽を抽象絵画の源
泉とし、音を絵画で表現しようとした最初の画家である。
 こうした変転してやまない三岸の画風をみて、様式のない画家と揶揄する
批評家も少なくなかった。しかしそんな批判者に対して、三岸は「人間の感
受性は常に極めて順応的」であり、「新しい社会環境から新しい美的価値は
生れる」とし、「自分の転換を変化と見るか発展と見るかは各自の自由であ
る」(「転換」)と抗弁している。それではここで言われる新しい環境や新
しい美的価値とは一体何なのだろうか。

 2・関東大震災以降の東京

 この新しい環境や美的価値とは、直接的には関東大震災以降、急速に復興
し近代化した東京の都市環境を指している。昭和二年(1927)に上野・浅草
間に地下鉄が開通したことを機に、浅草はオペラやレビューが催される大衆
文化のメッカとなった。また銀座にはデパートやカフェが建ち並び、最新
モードをまとったモガ・モボが闊歩するようになった。三岸もそうした銀座
病に取りつかれた一人だった。
 「彼(三岸)は夢を求めて、数日さまよひ歩く。浅草、銀座、レヴユー、
シネマ…街は彼の幻想と神秘との、欲望を充たしてくれる。最新のウイン
ドー、西洋骨董の店、婦人服のウインドー、おびただしい下手物、ロココ趣
味、西洋雑貨の窓、窓。」(「三岸好太郎に関するノオト」)
 ヴァルター・ベンヤミンのいうフラヌール(遊歩者)よろしく、「街」の
画家・三岸好太郎は、東京の街をさまよい歩いた。その意味で言えば、三岸
の画風の変化は、確かに直接的には西洋の絵画様式の変化によるものだが、
一方で昭和初期の東京には、その変化を受け入れるだけの都市環境や情報環
境が整備されていたとも言える。レンガ造りの街並みからコンクリート造り
の白亜の街へと変貌を遂げた東京は、三岸のイメージを醸成するかけがえの
ない場となったのである。

 3・開拓街・札幌

 また「街」という観点でみるならば、東京に劣らず札幌もまた三岸にとっ
ては重要な街である。三岸は、札幌で生まれ少年時代をそこで過ごすことに
なるが、当時の札幌はアカシア並木の美しいエキゾチックな街だった。
 前の方でも少し述べたが、三岸は周囲の画家の影響で、大正十五年の九月
から十二月にかけて上海を中心に蘇州、杭州を旅行し、東洋趣味の絵画を描
いている。しかしその後、深刻な「スランプに堕(おちい)る。」そのスラン
プから抜け出すために彼が描いたのが、同じ上海の租界でみた西洋的な風物
であり、サーカスの道化や白馬だったというのは興味深い。恐らくこの時期
に、三岸ははっきりと自分が東洋的な感性ではなく、西洋的な感性の持ち主
であると自覚したのではないか。そしてそれは三岸が、札幌というエキゾ
チックな街の中で、さらに言うならアメリカの開拓街をモデルにした街の中
で育ったこと無縁ではないはずである。
 西洋的な街の中で育った三岸だからこそ、急速に近代化していく東京の感
性を的確に表現できたのだし、事実、東京の画壇は、猫の目のように変わる
三岸の画風を受け入れ続けた。こうした三岸の特定の画風ではなく、画風の
変遷そのもののうちに自己の個性を打ちたてようとしたあり様は、北海道の
開拓者精神の現れであると指摘されている。しかしそれは、別の見方をすれ
ば、開拓民のもっている流浪者的、旅人的意識の現れだとも言える。開拓者
とは、元いた場所の精神性から切り離され、全く別の荒野に根を張るよう強
いられている人々でもあるからである。最後に三岸好太郎に典型的に現れた
東京と札幌との関係、あるいは日本の文化と北海道との関係が、SFという
ジャンルにも確認できることを指摘して本論を締めくくりたい。

 4・アメリカ文化の受容と北海道SF

 北海道は荒巻義雄、川又千秋、「イスカーチェリ」の三浦祐嗣や波津博明
など多数のSF作家、SF者を生み出した土地である。こうした「道民」と
言われる人たちのSFというジャンルに対して果たした貢献をみるとき、や
はり道民の意識とSFというジャンルとの親近性を思わざるを得ない。さら
にいうなら北海道という土地がそもそもアメリカの開拓者精神によって開発
された場所であるということも考慮に入れなければならないと思う。
 1960年に創刊された『SFマガジン』が当初、アメリカのSF小説の翻訳
を中心としたものであったことはよく知られている。実際『SFマガジン』
が創刊される以前から、日本にはアメリカの文化が大量に輸入されていた。
特に1954年の「ローマの休日」や1955年の「エデンの東」に代表されるアメ
リカ映画の輸入は激しく、1958年には事実上、アメリカ映画に対する輸入制
限がかけられている。さらに1959年にはアメリカ製のテレビ番組がお茶の間
を賑わすようになり、特にカウボーイたちの物語である「ローハイド」は
ウェスタンブームのはしりとなった。SFもそうしたアメリカの大衆向け文
化の一つとして受容されたのである。北海道にSF作家やSF者が多い理由
の一つには、北海道の街並みや風土がアメリカ的なものであり、彼らにとっ
てはSF小説で語られる舞台設定が、直感的に理解しやすいものだったから
ではないだろうか。特に札幌農学校には、開拓時代の初期からクラーク博士
の弟子たちがマサチューセッツから呼ばれ、近代的な農学・植物学に根差し
た品種改良や洋式農具によるアメリカ流の大農法が伝えられた。こうしたア
メリカの技術者たちが伝えた農業技術が、北海道の開拓の基礎になったこと
は、すでによく知られている。
 また北海道の中心都市・札幌では、都市形成の早い時期からキリスト教の
宣教師やミッションスクールによるキリスト教の幼児教育が行われてきた。
三つ子の魂百までではないが、こうした幼児期のキリスト教教育も、信仰に
は結びつかなくともキリスト教文化や、それに根差すアメリカ文化に対する
シンパシーを高めたのではないか。

 5・SFと開拓者精神

 さらにいうなら、北海道のSF作家たちがアメリカの文化の中でもSFと
いうジャンルを意識的に選択したのは、SFという概念の側にもアメリカの
開拓者精神が宿っていたからだろう。「スタートレック」のようなスペース
オペラは、宇宙開発という典型的な開拓者の物語である。またバラードのよ
うなニューウェーブSFも人間の内面世界を開拓している物語だと言える。
他にも新しい知覚、新しい想像力をしきりに求めようとするSF作家、SF
者の精神は、本質的に開拓者的なものである。恐らく北海道のSF作家、
SF者は、SFの中に眠るこの開拓者精神を敏感に嗅ぎ取り、日本という国
の中では自分たちこそSFをよりよく、また実感をもって表現できると感じ
ていたのではないか。北海道におけるSF作家、SF者の多さは、その直感
がさほど間違ったものではないことを意味しているだろう。あるいはある種
の人々にとっては、SFこそが道民的なアイデンティティー――開拓者的であ
るとともに流浪者的な意識――を保証するジャンルのように映っていたのかも
しれない。

 6・知覚の開拓者・三岸好太郎

 開拓者精神という視点からみたとき三岸好太郎は、知覚の開拓者であった
ということができよう。この三岸の作り出す新しい知覚を、関東大震災から
復興した新しい東京の都市民は、喜んで受けいれた。これと同じ構造は、北
海道のSF作家と戦後の大衆文化との間にも確認することができる。戦後の
焼け野原から神武景気をへて、ようやく生活の安定を手に入れた大衆は、ア
メリカの文化やライフスタイルを熱狂的に迎え入れる。その動向を見て、北
海道のSF作家たちは、アメリカ的な感性と精神を深く体得している自分た
ちこそ、この新しいジャンルの担い手にふさわしいと考えたのではないか。
事実、彼らの文学は戦後大衆文化を担う一翼として受け入れられたのである。
 もっとも三岸好太郎が知覚の開拓者だったからといって、三岸がSF者
だったなどと言う気はさらさらない。芸術家とは多かれ少なかれ、知覚の開
拓者だからである。しかし道民の意識と新しい大衆文化の関係を考えると
き、やはり三岸とSFとは踵を接する位置に、特に北海道の開拓精神を介し
て非常に近しい位置にいるように思えてならないのである。(関竜司)

(参考文献)
工藤欣弥・寺嶋弘道『三岸好太郎――夭折のモダニスト』、北海道新聞社、
1988年
村木明・匠秀夫『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』、集英社、
1976年
中島みゆき『女歌』、新潮文庫、1988年
『開拓の群像 上』、北海道、1969年
『科学魔界』50号、科学魔界、2009年

三岸好太郎の画業に関しては以下のページ参照のこと。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/mkb/gallery.htm


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