第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


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 22 北海道SF大全 第十三回 『オホーツク街道』(朝日文庫)――北の想像力(サイエンス・フィクション)――


 1・もし日本が稲作国家でなかったとしたら

 司馬遼太郎は青森県を舞台にした『北のまほろば』(1995)の中で、およ
そ稲作に不向きな土地で米を作り続け、「けかち」という飢饉に悩まされた
江戸時代の津軽の農民の姿を見て、次のような歴史的仮説(IF)を立てて
いる。

 もし津軽がコメ作りに偏執せず、大いに雑穀を作り牛馬を増やし、漁民に
干魚を増産させ、林業を盛んにすれば、どうだったであろうか。

 この仮説的世界を描くために、司馬は江戸時代以前――つまり津軽氏が農民
に米作りを強制する以前――の津軽に思いを馳せる。司馬は言う。「(津軽を
ふくめた)青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信
じがたいほどにゆたかだったと想像されている。山や野に木ノ実がゆたか
で、三方の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べ
物のほうから身をよじるようにして――サケ・マスのことだが――やってくる。
そんな土地は、地球上にざらにはない。そのころは、「けかち」はなかった。」
 その証拠として司馬は亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶を取り上げ、この土偶を
作った人物は土偶を作る専門家であり、こうした専門職が生まれるほど縄文
時代の亀ヶ岡は豊かだったと主張する。
 また室町時代の十三湊の遺跡から陶磁器を使った食器が多量に出土したこ
とについても触れ、木製の椀が普通だった時期に、青磁・白磁・青花、播
磨・常滑といった多量の陶器が発掘されたのは、十三湊が国際性をもったモ
ダン港だった証拠だとする。
 こうした豊かな動植物の恵みを最大限に利用し、海上交易の技術をフルに
使えば、江戸時代の津軽もきっと「まほろば」であったに違いないと司馬は
考える。特に『北のまほろば』の執筆中に発見された三内丸山遺跡は、司馬
のこの確信をさらに強めることになった。
 司馬の描く「津軽」には、「日本は稲作国家」という先入観の背後に隠れ
された別の生き方を発掘しようとする意図が隠されている。言い換えれば
「もし日本が稲作国家でなかったとしたら、どのような国であり得たのだろ
うか」という壮大な問いが隠されているのである。
 もっとも司馬が「もし日本が稲作国家でなかったとしたら」という仮説を
立てることができた背景には、一つの伏線があった。それが『北のまほろ
ば』を執筆する3年前(1992年)に訪れたオホーツク海沿岸(「オホー
ツク街道」)をめぐる旅だったのである。

 2・オホーツク人との出会い

 司馬がオホーツク海沿岸を訪れた理由の一つは、オホーツク人の文化に触
れることだった。オホーツク人とはアイヌ以前に――3世紀から13世紀にか
けて――オホーツク海沿岸を中心にサハリン、千島列島に住んでいた先住民の
ことである。『日本書記』で「粛真(みしはせ)」、『通典』(中国の史
書)では「流鬼」、「ユーカラ」では「沖の人(レプンクル)」と呼ばれて
いるのが、彼らであると言われている。
 オホーツク人たちは、舟にのって海洋にでて海獣やクジラを狩猟する生活
を送っていた。彼らの狩猟方法は、エスキモー(イヌイット)のものとよく
似ており、特に「回転式離頭銛」の利用にそのことがよく表れている。回転
式離頭銛とは、獲物に銛を打ち込んだ際、銛の先端が回転することで獲物の
中に食い込み、先端部分だけが切り離される銛のことである。獲物に食い込
んだ先端部分は、細綱でつながっており、一度捉えた獲物を逃さない仕組み
になっている。この特殊な銛が発見されたことから当初、オホーツク人とは
エスキモーのことではないかとも考えられていた。
 しかしオホーツク人が影響を受けたのは、エスキモーの文化だけではな
かった。例えばオホーツク人の使っていた土器(「オホーツク式土器)は、
旧満州や沿海州のもの(刻文土器)に似ているし、出土した鉄器の中の蕨手
刀や銙帯金具は日本で作られたものである。蕨手刀を見た司馬は、オホーツ
クの“族長”氏は、朝廷から従七位の位をもらい、「平素、奈良朝の官服を来
てこの海岸を歩いていたかもしれない」と想像をめぐらす。しかし人骨の特
徴をみると、アイヌや日本人とも違い、異常に背が高い人々だったことも明
らかになっている。
 今日までの研究で、オホーツク文化は基本的に大陸(靺鞨=同仁文化)に
起源をもち、サハリンで成立し、南下したものであるとされている。しかし
オホーツク人は交易の民として、南方の北海道中央部や本州とも交易し、大
陸と南方地域とを仲介する役割も果たしていた。この大陸出身の海獣狩猟民
であり、かつ交易の民でもあったという独特のあり方こそがオホーツク文化
の独自性を特徴づけていたのである。司馬もオホーツク人が大陸からやって
きたという説を支持したうえで、彼らが「流氷」とともにやってきたという
自説を展開する。
「流氷は単に地球物理学的現象ではなく、われわれ生きものには、ありがた
い現象らしい。流氷の下面には魚のよろこぶ藻類やプランクトンなどの微生
物の増殖がいちじるしく、魚類の繁殖に役立っているそうである。」そして
黒龍江(アムール川)が流水製造の重要な装置になっているとしたうえで、
隋唐時代に黒水靺鞨や女真族と呼ばれた人々が、この流氷の流れに沿って
やってきたのではないかと仮説を立てる。
 オホーツク人が北アジア起源ではないかという仮説は、服飾史的にも言え
ることである。オホーツク文化の遺跡である弁天島貝塚やモヨロ貝塚からは
「オホーツクのヴィーナス」と呼ばれる美しい女性のミニチュア像が発掘さ
れている。このヴィーナスたちは「体の線に適った洋服を着ていて、胸はい
くぶんかのふくらみがあり、肉薄い方から両脚にながれている線がかよわ
い」という特徴をもっており、その服はモンゴルや満州、ツングース、ウイ
グルの民族服に近い。(さらに言えばウィルタの服もそうである。)彼女た
ちは地母神的な性格をもったシャーマンだと推測されている。また網走のオ
ホーツク遺跡にある竪穴住居もアムール川下流域に住むニブヒの住居に近い。
 司馬はここからさらに想像力をたくましくして、女真族が砂金採りに従事
しており、後に「金」という国をたてたことを踏まえ、オホーツク人も女真
族から砂金をもとめて別れ、日本までやってきたのではないかと推測する。
事実、明治時代に入ると実は北海道が、「金」の豊かなところであったこと
が確認され、砂金採りや金山の開発が大規模に行われている。
 今日の考古学の研究では、オホーツク人の文化は、女真族の直系ではな
かったとされており、オホーツク人が活躍した頃のオホーツク海沿岸も温暖
で、流氷も接岸していなかったと言われている。しかしオホーツク人たちが
女真族と極めて近い文化をもった人たちであり、クジラなどの大型海獣を
追ってアムール川下流域から北海道にたどり着いたことは認められている。
 司馬はこのオホーツク人たちが残した文化の足跡を追うことで、北の海で
海獣と格闘したたくましいオホーツク人の精神が日本文化にも流れ込んでい
ることを確認しようとする。例えばオホーツク人はクマ送りの儀礼をしてお
り、オホーツク人の遺跡からも優れたクマの置物が出土している。これはア
イヌのイヨマンテや青森のマタギの熊送りの儀式のルーツなのではないか。
事実、アイヌ犬とも呼ばれる北海道犬は、マタギが猟で使う犬と同系統であ
るし、マタギという言葉もアイヌ語の「マンタギトノ(狩猟者)」から来て
いるという説がある。また青森県に「金(こん)」や「今(こん)」という
姓が多いのは、女真族が自らを「金(アイシン)」と呼んだことと絡むので
はないか。さらに太宰治は長身で白晳、深目隆鼻だが、どこか顔面が広く西
洋人くさくない容貌をしている。この青森出身の太宰の面貌こそオホーツク
人のそれではないか。もちろんこうした推測は、あくまで推測の域を超えな
いのだが、それでも司馬の想像力を刺激してやまない。このオホーツク文化
の日本文化への影響という問題意識の中で司馬が見出したのが、「もし日本
が稲作国家でなかったとしたら」という仮説(IF)だったのである。

 3・バブル経済と「ランド(土地)」の思想

 オホーツク海は、稲作社会にとってはおそろしい海だと司馬は言う。オ
ホーツク海は、特有の寒冷な海面を持っており、年によって不吉な寒気団を
生む。この寒気団が夏に冷たい濃霧をうみ、北海道や東北に凶作をもたら
す。熱帯の植物である稲は、高温多湿な気候のもとでしか分けつしないた
め、冷夏は凶作に直結するからである。その意味で「うら寂し北海道の東な
る膽振(いぶり)のがすにはじめて逢う日」と歌った与謝野晶子は、まさに
稲作社会の精神を代弁しているのである。
 しかし漁労や海獣をとって暮らす人々にとって、オホーツク海は「宝の
海」である。定期的に鮭や鱒が産卵のために母川にさかのぼってくるし、鰊
も来遊する。特に栄養塩に富んだ親潮(千島海流)は、サケだけでなくタラ
やカニを養うし、今日でもホタテ貝の養殖や昆布の採取で、大きな富をもた
らしてくれる。このように「漁民の海」としてみたとき、稲作社会にとって
おそろしい海は「宝の海」に変わる。この生活様式による視点の変化こそ
が、司馬に「もし日本が稲作国家でなかったら」という仮説(IF)を立て
させ、狩猟採集生活への関心をいだかせたのである。『オホーツク街道』か
ら三年後の『北のまほろば』の旅で精力的にマタギの生活を取材し、十三湊
を根拠地に海上交易で栄えた津軽安藤氏に関心をよせたのも、土地に根差し
た生活の再評価が急務だと司馬が考えていたからである。
 その一方で司馬がこの仮説(IF)を立てたのは、稲を作ることを王化と
し、稲作によって身分制度や社会的同調圧力まで作り上げた稲作中心の国家
像を相対化する必要性を司馬が感じていたからでもある。司馬が『オホーツ
ク街道』を書いた一九九二年は、バブル経済が崩壊した翌年にあたる。バブ
ル期の日本人は土地投機に走り、土地の上で営まれる生活を無視した地上
げ、土地転がしが横行した。この「土地神話」という得体の知れない妄想に
取りつかれ、自滅していった日本人の姿をみて、司馬は「戦後社会は、倫理
をもふくめて土地問題によって崩壊するだろう」と予言し、その事態は「太
平洋戦争を起こした日本とそれに負けて降伏した事態よりももっと深刻だ」
と断言する。司馬がここまで言ったのは、日本人が土地を投機の対象にした
だけでなく、その土地の上で営まれてきた生活、産業、伝統をも平気で放棄
し、誰もそれを守ろうとしなかったからである。「私に経済はわかりませ
ん。しかし思想だけでネギ畑を眺めていて、どうやら労働の価値というもの
はこれで終わりだなと思ったんです。…労働の価値が吹っ飛び、ものを作る
喜びもない。」もはや晩年の司馬の目に日本という国は、おかしな同調圧力
と、単なるシステムだけで機能している抽象的な国家にしか見えていなかっ
たようだ。
 司馬は『この国のかたち』(1986―1996)の執筆の際に、「小生、
NATION(民族)を書くつもりもなければ…STATE(国家)を書くつもりもな
い。この国のLAND(土地)を書いてみたいのです」といい、「土」という漢
字を無理やり「クニ」と読ませようとしていた。そこにはネーションステー
トとしての日本国になかば絶望し、ランド(土地)に根差した人間のあり方
に希望を見出そうとした一人の作家の姿がある。そしてその姿は、司馬がオ
ホーツク人を語る際にも表れている。
 司馬はオホーツク人の文化が、国境を越えた広大な領域に広がっているこ
とに感動し、次のように語る。
「樺太においては、日ソ共同で、各地の遺跡が発掘された。日ソといって
も、日本は北海道、旧ソ連は樺太の考古学者である。しかしこの両者はロー
カルではなく、オホーツク文化については、世界の中心的存在である。」
「樺太の南半分が日本領であったことは、一九〇五年からわずか四十年しか
なかった。“オホーツク人”が、奈良朝のころから平安期いっぱい、三百年以
上、この北海道オホーツクの海岸にきていたことをおもえば、そのほうの過
去のほうがはるかにながい。鷲が、舞っている。鷲は、たえず樺太とゆきき
している。人には、国境がある。」「いま脳裏に日本列島の浜辺を思いうか
べている。冬、流氷のくるオホーツク海岸もあれば、春から初夏にかけて黄
沙がやってくる東シナの浜辺もある。…住民はアジア人である。」
 もちろん司馬自身も、自分の「ランド(土地)」の思想がたやすく「国
家」に置き換られるものでないことくらいは十分に自覚していただろう。し
かしあまりにも自分たちの生活習慣や価値観が失われていくことに無頓着な
国民を見て、歴史小説を書いてきた日本の知識人の責務として「ランド」に
根差す人間の暮らしを語らなければならないと思ったのではなかろうか。そ
う考えたとき、司馬の「もし日本が稲作国家でなかったとしたら」という学
問的仮説(サイエンス・フィクション)は、単なる壮大な仮説という枠組み
を超えて、重い文化的意義を担わされていることになる。
 このように『オホーツク街道』は、一般に司馬史観と呼ばれている歴史観
を理解するうえで極めて重要な著作である。と同時に読者はそこに描かれた
オホーツク人の文化に、「国」という枠組みが見失っている文化的底力も感
じるはずである。『オホーツク街道』を読むことは、日本文化に微弱な形で
宿るオホーツク人の逞しさを確認するともに、司馬の膨大な学問的・科学的
知見に基づいた推論――サイエンス・フィクション――に触れることでもあるの
である。
 (関竜司)

 (参考文献)
 司馬遼太郎『オホーツク街道(街道をゆく38)』(新装版),朝日文
庫,2009年
 司馬遼太郎『北のまほろば(街道をゆく41)』(新装版),朝日文
庫,2009年
 『司馬遼太郎の風景①』,日本放送出版協会,1997年



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