第51回日本SF大会 Varicon2012(ヴァリコン)

~第51回日本SF大会 Varicon2012~
       -The 51st Japan SF Convention-
開催日:2012年7月7日(土)~8日(日)
会 場:合宿の宿 ひまわり (北海道夕張市)
※本大会は「完全合宿制」です。


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 25 北海道SF大全 第十五回 武田泰淳『ひかりごけ』(新潮文庫)


1.
 1944年、北海道羅臼町で発覚した食人事件。
 この食人事件を題材に、武田泰淳が発表した小説作品がこの『ひかりごけ』
である。武田の小説をきっかけに、現実の食人事件もまた「ひかりごけ事件」
と呼ばれるようになった。

 小説は、三部構成になっている。
 第一部は、「私」が羅臼町を訪れるところから始まる。「私」は、羅臼の近く
にある「マッカウシ洞窟」にひかりごけを見に来たのだ。「私」を洞窟に案内し
てくれたのは、三十代の中学の校長だった。彼は、やさしく恥ずかしそうな微笑
みをたたえたおだやかな人物だと描写されている。そして、この校長が「私」に、
冬の知床半島沖で遭難した船員たちのあいだで起きた、食人事件の概要を語って
聞かせるのである。

  「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやって
  きたんですからね。全く凄い奴がいますよ。」
  彼はそう言って、おかしくてたまらぬ風に、笑いを吹き出しました。
  「船長は自分ではだまっていたので、最初は誰にもわからなかったんですが、
  一人じゃなくて、二、三人食べたらしいんですよ。凄い奴ですよ。」
  その「凄い奴ですよ」と笑う彼の口調は、たとえば同じ下宿の友人が、とん
  でもない失敗をしでかしたのを、冗談混じりで批評するような、無邪気で
  明るい口調でした。(『ひかりごけ』新版 175頁)

 この校長の話をきっかけに、私は事件に「文学的表現」を与えなければならない
と思うようになる。そこから「私」が展開するのが、野上弥生子の『海神丸』と
大岡昇平の『野火』への、つまり「人肉食」を扱った先行作品への有名な批判で
ある。その主張の焦点は、両作品とも、ぎりぎりの飢餓に追い込まれた登場人物が、
それでも食人の罪を犯さなかったことが、小説の「救い」になっているという点に
ある。

 「ぼくは殺したが食べなかった」
 『野火』の主人公の台詞を引用しながら、「私」は、「殺人」を容認する「文明
人」が「食人」を忌避すべき罪と見なすその価値観を糾弾する。「殺人」は地球上の
どこででも観察される平凡な犯罪であるのに対して、「食人」のほうは、今日、
地球上からほとんど消滅しつつある。殺人は習慣化されようとも、食人は嫌悪の
念をもよおさせずにはいられない。なぜなら、食人は「文明人」の体面に関わる
行為だからである。つまり、犯罪を「殺人=許される犯罪」と「食人=許されない
犯罪」とに区分するその境界線は、同時に、人間を「文明人」と「非文明人」とに
区分する境界線でもある。

 だからこそ、食人事件に文学表現を与えることは、非文明人という受難者の
立場に寄り添いながら、「文明人/非文明人」という区分をあらためて問いに伏す
ことにつながる――それが、今日、一般的に流布している『ひかりごけ』評である。
しかしながら、はたしてこうした評価が武田泰淳の意図に寄り添っているかどうか、
あるいはそれが武田の意図だったとして、じっさいに『ひかりごけ』という小説の
表現そのものが作者の意図を忠実に実現しているかどうかは、とても確実とは
言えない。


2.
 第一部での「私」の独白を経由して、『ひかりごけ』は、戯曲のパートに突入する。
 この「読む戯曲」を通して、『ひかりごけ』の読者は、小説の内容にイメージの肉づ
けを与える「演出者」の仕事を務めなければならない。とはいえ、演出に際して最小
限の条件は、作者の側から指示される。たとえば、船員たちの肉を食べながら最後
まで生きのこった「船長」は、「読者が想像しうるかぎりの悪相の男」であると、
そして、登場人物の中でもっとも若く、最終的に船長に殺されることになる「西川」
は「美少年」であるとト書きが付されている。

 戯曲は、第一幕と第二幕に分かれている。
 第一幕の舞台は、酷寒の北海道で、遭難した船員たちが逃げ込んだ「マッカウス
洞窟」である。このマッカウス洞窟で食人事件が起き、第二幕では、唯一生き延び
た船長が法廷に立つ様子が描かれる。つまり、第一幕と第二幕は、事件の発生の場
面と、その事件の決算の場面というかたちで対応関係にある。

 それでは、マッカウス洞窟で起きた食人事件はどういう経緯をたどったのだろうか。
 沖合で遭難して、陸地までたどり着き、洞窟に逃げ込んだ船員は、「船長」「西川」
「八蔵」「五助」の四名だった。その中でも五助の衰弱はひどく、最初に動けなくなっ
て、もはや死を待つばかりという有り様になる。そこで五助は叫ぶ。「おら、一番先に
は死にたくねえど[…中略…]おめえたちに喰われたくねえからだ」。五助の叫びを聞
いた八蔵は、すぐさまその言葉に反論するけれども、歯切れは悪い(「気色がわるい
こと、言うもんでねえてば」「人の肉喰う奴あ、めった、いるもんでねえさ」)。
それでも、五助に詰め寄られて、八蔵は、彼が死んでもその肉を食べないという
約束を交わす。

 しかし、現実には、五助の死体を食べなければ、もはや生存不可能というところに
まで、生き残りたちは追いつめられている。船長に「あれを喰いたくはねえのか」と
問われた八蔵はこう答える。「……おら、五助さ喰いたくはねえ。うんだが、あの肉
はときどき喰いたくなるだ」。ここで八蔵の意識は、二つの次元に分裂している。一
方では、「あれ」は、八蔵にとって「五助」のままである。生存しているか死亡して
いるかに関わらず、「あれ」は、八蔵と人格的な関係を維持している。これを約束的・
法的・社会的な次元と呼ぶことができるだろう。他方で、八蔵は「あれ」を「あれ」
として、つまり「あの肉」として考えることもできる。八蔵が、この肉の次元(=純
粋な生存の次元)にとどまろうとするなら、彼は五助という人格と交わした「食べな
い」という約束を破らずにはいられない。したがって、肉の次元は、約束の次元の外
側にあって、約束の次元を破棄したところに現われてくる。ここで俎上に乗せられて
いるのは、約束を守って「普通の人間」であり続けるか、約束を破って「悪い人間」
に変容するかという二者択一なのである。

 しかし、この「悪い人間」は、人肉を口にした瞬間に人間が全実体変化を起こして
発生する新種の怪物というわけではない。けっきょく、八蔵は五助の肉を食べること
を拒み続けるのに対して、船長と西川は、人肉を食べて生き延びる道を選ぶ。それ
でもなお、西川のほうは、死につつある八蔵をたんなる肉として見ることをせず、
八蔵が死に至るまで、彼と人格的な交流を保ち続けようとする。そして、そんな
西川のことを、八蔵は、「悪い人間ではない」と評価する。これに対して、船長は、
善い方にも悪い方にも目端がきき、先の先まで頭をはたらかせ、残りの食料を計算
している人物だと評価される。じっさい、死に瀕した八蔵を前にしての船長の言葉
は、「仕方ない」というものである。これは、八蔵を仲間として見ていないとか、
仲間が死ぬことが悲しくないとかということを意味しない。しかし、船長は、八蔵
との人格的な関係については、すでにこれを括弧に入れ、判断を停止している。

 生き残りたちは、五助の肉を食べるか食べないかという選択で、食べないことを選
んだ八蔵と、食べることを選んだふたりとに分かたれる。そして、人肉食を選んだ者
たちもまたさらに、なお仲間との人格的な関係を保持しようする西川と、自他の人格
を宙吊りにする船長とに分かたれる。つまり、「悪い人間」とは、本来は何か固定し
た実質(たとえば「人肉を食したという事実」)をもつわけではなく、言ってみれば、
「普通の人間」からそれ以外の人間をその都度分離していくプロセス――人間が
人間であるための条件を無限小まで削ぎ落としていくプロセス――について与え
られた形容なのである。

 しかし、「普通の人間」と「悪い人間」の区別を決定的にしるしづけるメルクマー
ルがここで登場する。それが「ひかりごけ」である。人肉を食べた者の首のうしろに
は、光の輪が出て、そのうすい緑色の光はひかりごけの光に似ているのだという。人
肉を食べた者を同定するこの聖別のアウラは、ある人間が、ある方向から、ある短い
時間だけ見ようとすれば見ることが出来る。

 五助の肉を食べた西川は、すでにこの光輪をその身に負ってしまっている。しか
し、このアウラを見ることのできる人間とは誰か? 八蔵は言う。そのアウラは
「おらのほかの誰にも見えねえ」と。つまり、「人肉を食べたことの無い者」だけ
が、人肉を食べた人間の背中にアウラを認めることができるのだ。そのいみで、
誰かが誰かの背後にこのひかりごけのアウラを見ることが出来るという事実が、
約束=社会の次元と、肉=悪の次元とを区別する指標になる。そしてそれゆえに、
このアウラは、物語の結末で決定的な意義を帯びることになる。


3.
 戯曲パートの第二幕では、船長が食人の罪で告訴され、法廷の場に引き出された
場面が舞台となる。この第二幕の演出については、原作者から非常に念入りな注文
が出される。まるで読者は、この舞台監督の命令を忠実に遂行するアシスタントで
しかないかのようだ。たとえば、法廷の雰囲気に関しては、「キリスト受難劇に似
た、騒然たる静寂の気分を出すために」、ブリューゲル、ないしはヒエロニムス・
ボッシュのグロテスクな聖画とか、日本の中世絵巻物とかを念頭に浮かべる必要が
あるという。

 そして船長の容貌についてもまた、第一幕とは違った注文がつけられる。「第二
幕の船長は、全く悪相を失って、キリストの如き平安のうちにある」。「そして何よ
り大切なことは、船長の顔が、筆者(したがって読者)を、案内してマッカウス洞窟
へおもむいた、あの中学校長に酷似していることである」。

 法廷に引き出された船長は、理智的な性格で、標準語で話す。そして彼は、キリ
ストと、「私」に食人事件について教えた中学の校長と、この両者の性格を何らか
のいみで参照している。その点について、作者は、「筆者にひかりごけを見物させ、
「凄い奴がいますよ」と語って、筆者をペキン事件に導入したのは、ほかならぬ校
長であることを想起すれば、船長から校長への突如たる変貌は、さして怪しむに足
りない」と注記している。

 しかし、この突然の転換ほど、読者にとって不可解な謎は無い。「私」に事件を
教えた中学校長と、船長とは、同一人物だと言いたいのだろうか。しかし、その点
こそは、武田泰淳が、両者の年齢(中学校長と船長とのあいだには十歳以上の年の
開きがある)、職業(有罪を宣告された人間が就けない職業があるとすれば、それ
は教師である)、本籍(刑期を務め終え、出所した船長がどこに行くにせよ、それ
が羅臼以外のどこかであることは確実である)などの特徴描写によって、慎重に混
同を避けようとした当の性急な解釈に他ならないのである。だとすれば、船長と中
学校長との(そしてキリストとの)あいだにある連帯関係は、もっと巧妙で内密な
ものに違いない。

 第二幕の船長は、法廷で、検事の告発をすべて従容として受け容れるかに見え
る。しかし、再三にわたって発言を求められた結果、彼はこう述べる。「私は我慢
しています」。何を我慢しているというのか? 彼はいろいろなことを我慢して
いると答える。たとえば、彼は、裁判を我慢している。

 この発言は、法廷を騒然とさせ、検事の怒りを煽り立てる。船長は、裁判を不服
とするわけではない。罪を認めないわけではない。ただ、裁判が自分とは無関係に
思われる。そう述べるのである。ここで彼の発言は、言葉通りに受け取られなけれ
ばならない。彼は、告発にも、裁判にも、有罪宣告にも逆らわない。ただし、自分
に有罪が宣告されてなお、その有罪宣告とは無関係な残余の自分というものが
ある。彼はそう言おうとしているのである。

 ここで第二幕の船長が採っている態度には、第一幕の船長のそれと何かしら共通
しているところがある。船員仲間が次々に死んでいくのを前にして、悲しくない、
切なくないわけではないけれども、それでも自分の人格的な反応を宙吊りにして、
ただひたすら生存を目的にしていたあの態度である。じつのところ、第一幕の船長も
また、「我慢」という言葉を口にしていた。「俺は我慢してるさ。我慢できねえこって
も、我慢してるさ」「おめえは自分で、何が一体せつねえだかわかっか。寒いのが
せつねえだか、腹がへるのがせつねえだか、それとも仲間の肉を喰ったのがせつね
えだか、助かるあてのねえのがせつねえだか、わかっか。わかるめい。わかるはず
はねえだ。なあもかんも入れまぜでせつねえだべ。何がせつねえのか、わかんねえ
くれえせつねえだべ。俺だってそうよ。俺だって何を我慢してんのかわからねえく
れえ、我慢してんのよ」。

 「我慢」とは、約束の領域、法律の領域が破れたところに現れる、人肉食の領域で
生きている状態に船長が与えた定義である。「我慢」とは、何かについての我慢なの
ではない。生きるとは、生きることそのものを我慢することに他ならない。だから、
この船長の表現は、ほとんどトートロジーを成していて、どんな社会的制約からも
離れて純粋に生存しようとすることに対して与えられる、かろうじて意味があるか
なきかのギリギリの定義なのだ。

 第一幕の時点では、船長は、この「我慢」について野性的にしか理解していな
かったのに対して、第二幕の時点では、これを理智的に感得していると、武田は
記している。その第二幕の船長もまた、裁判を含め、自分自身の生存を「我慢」
しているけれども、ひとつだけ彼が望むことがある。それは、自分が食べた人間
たちに裁かれたい、ということである。

 彼は検事に対して、人間の肉を食べたことがあるかどうかと尋ね、検事がそれを
否定すると、船長は、検事に裁かれても自分は裁かれたとは思えないと、発言する。
まるで、人肉食を犯したことがある人間ならば、法律の領域では執行されることの
できない裁きを、「我慢」の領域で完遂することができる、とでもいうかのようで
ある。しかしこれは、同時に、法律によって裁くことが不可能な自分――あらゆる
社会的関係から切り離されているがゆえに、有罪を宣告される瞬間をいつまでも先
延ばしにしていられる自分――が「我慢」の領域に存在している、そう船長自身が
自認していることをも意味する。

 「肉」と「罪」、そして「罪の清算」という一連の概念群は、キリスト教の伝統では、
「受難」という言葉に集約される。じっさい、武田泰淳自身も『ひかりごけ』の中で、
キリストについては「受難」という言葉を用いている。それなら、どうして船長は、
自分の身に起きたことについて「受難」という言葉を使わず、「我慢」と表現する
のか。じつは、「我慢」とは、もともと仏教においては、煩悩に与えられる名称
だった。自我に執着することによって、自分を高く見て他人を軽視する思い上がり
の心を指して「我慢」と呼んだのである。

 つまり、この船長は、受難者のような身振りを採りながらも、その実、他人に比べ
自分は特別だと慢心している。検事に質問されて「答えてもあなたには理解できな
い」という態度を取りつつ「私は我慢しています」と発言する船長の身振りは、聖
人の、ましてキリストのそれではありえない。『ひかりごけ』を無条件に礼賛する
立場の批評によく見られる間違いではあるが、船長は、聖者でも、同情すべき犠牲
者でも、無垢な生の発見者でも、新しい倫理の地平に立つ者でもない。「我慢」と
いう言葉は、船長の立場が、純粋な加害者にも被害者にも帰属不可能なことを示す
ため、武田泰淳がこっそりしのび込ませた指標に他ならないのだ。

 船長は、自分が発見した人肉食の領域の倫理的なステータスについて誤解して、
それを説明するのに失敗してしまった。それが、第二幕の船長のすがたが第一幕
からまったく変貌してしまう理由である。第二幕の船長が、「悪相を失って、キ
リストの如き平安のうちにある」のは、彼が食人の試練を乗り越えて、理性によ
って自分の無罪を完全に自分のものと出来たからではない。聖別された人のアウ
ラが、『ひかりごけ』においてはその意味をひっくり返され、人肉食のメルクマ
ールとなるのと同様に、法廷に立つ船長が享受しているキリストの如き平安は、
彼の底無しの厚顔無恥さに焼きつけられた烙印なのである。

 じっさいにも、第一幕の船長は、八蔵も死んで西川とふたりきりになった時点で、
彼からなぜ平気で眠れるのか、(人肉を食べた罪悪感に苦しめられて)切なくない
のかと問われ、こう答えている。「せつねえともさ、ただ俺の心はせつねえだけで、
迷うこたねえだ。俺は、俺がしようと考えたことを、しるようにしてるだ」。

 ――自分がしようと考えたことを、するがままにする。これが「受難」と「我慢」とを
分かつ決定的な境界線である。「我慢」は、理性的に判断する主体の自由意志を
前提している。そして、法律は、理性的主体が自由意志によって選択した行為に
こそ裁定を下すのだから、「我慢」は、法律からも、いかなる社会関係からも孤
絶している無垢の現実であるどころか、むしろそこからすべての法律が湧出する
源泉、法律と現実とがぴったりと一致している無条件の法律が建設される地点を
こそ、指し示している。反対に、「受難」に主体はいない。「受難」には主体の
破壊のみがある。

 「自分が食べた人間に裁かれたい」という船長の言葉に含まれるねじれを確認して
みよう。第二幕の船長は、人肉を食べたことのある人間、あるいは、自分の肉を食べ
られたことのある人間以外の、あらゆる人間とのコミュニケーションから後ずさり
する(「答えてもムダなのですが…」)。船長が自分のための安全な隠れ家とする
この人肉食の領域は、社会=法律の領域と重なり合いながらもわずかに余剰部分
を含んでいて、「人肉を食べた/食べられた人間が自分を裁く」という出来事が
起こりうる限りで、はじめてこの余剰部分は解消され、ふたつの領域は完全に
一致する。

 人肉食の領域に帰属する船長は、告訴、法廷弁論、有罪宣告という法律上の決定
をすべて受け容れる。しかし、それと同時に、人肉食の領域では、法律上の判決は
完遂されないとも主張する。このことが意味するのは、人肉食の領域では、もはや
罪という概念は実効性をもたず、在るのはただ「我慢」だけだということである。
言い換えると、法律上の判決は、法律の領域の内部でのみ通用する。法律の外部
としての「我慢」の領域というものが残存しているかぎり、法律上の判決は、
この「我慢」の領域ではその決定が保留され、宙吊りの状態になってしまう。

 これが、自分自身を食人者と認定しながら、食人者ではない自分以外のあらゆる
人間との関係から後ずさりしようとする船長の戦略である。食人の罪が、何か罪
以前の罪だとか、語るに値しない悪だとか、「選挙以前から検束されてしまって
いる」立候補者だとか、何かそれらに類したものと見なされているかぎり――つま
り、何らかの意味で食人が、法律の領域からはみでてしまうものだと考えられてい
るかぎり――世界でただひとりの食人者である船長は、個人的な「我慢」の領域の
中で孤立しながら、自分の有罪を留保し続けていられる。検事が、裁判長が、法廷
に属するすべての人が、法律に基づき、船長を食人の罪で裁こうとすればするほど、
船長のほうは、まさにその食人の領域に属しているという告発理由のおかげで、
ますます法律の領域から遠ざかって、内面の世界に独り引きこもりつつ、プライ
ベートな無罪を確信する。

 そのいみで、ひかりごけの微光が、「光りかがやくのではなく、光りしずまる」
「光を外に撒きちらすのではなく、光を内部に吸いこもうとしている」と描写されて
いるのは示唆的である。「自分が食べた人間に裁かれたい」という船長の言葉は、
法律の訴求的な効力を「我慢」の内部で無効力に反転してしまう魔法の呪文なのだ。

 だから、「『ひかりごけ』は救済を提示しない」という人口に膾炙したフレーズは、
よくよく注意して、慎重に受け取られる必要がある。もしこの救済不可能という言葉
を、人類は誰もが本質的に食人者で、誰もが有罪だから、誰にも船長を裁く権利は
無く、それにもかかわらずこの船長は法律上の判決を受け容れるのだから、彼は
救われない犠牲者である、という具合に解釈するなら、その解釈は、船長の仕掛け
た罠にはまり込んでしまっているばかりか、なお悪いことには、その内部に自己
破綻を抱え込んでいる。

 しかし、『ひかりごけ』の結末で、船長は、自分が食人者で、法廷にいるその他
のすべての人間は「立派な人間」であることを証明しようとして――つまり、法律の
領域からの人肉食の領域の分離を完全なものにしようと企てて――食人者の背後
に暗く輝く「ひかりごけ」のアウラに言及して、その結果、自身の無罪を完璧に取り
逃してしまう。

 なぜなら、法廷に居合わせた人々の誰にも船長のアウラを視認することができず、
かえってその全員の背中に緑の光の輪が浮かび上がる――すなわち、法律の次元
と人肉食の次元とを分断する指標が失われ、このふたつの次元の境界が識別不能
になる――『ひかりごけ』のラストが意味しうるのは、ただひとつのことだから
である。つまり、それは、法律がその根拠を失って、判決からその効力が完全に
剥奪されるということではなく、反対に、誰もが食人者であるがゆえに、誰もが
ただちに無条件に船長を裁く権利があるということだ。「ひかりごけ」のアウラ
が万人の背後に輝くとは、法の領域と人肉食の領域とがぴったりと重なって、あ
らゆる人間に無制限に法の判決が及ぶという事態の象徴なのである。

 だからこそ、物語の最後で船長は、とうとう我慢できなくなって、自分が唯一の
食人者であることを――つまり、自分こそが世界でただひとり、法の領域を超越した
無罪の人間であることを――承認してくれと叫び立てる。そしてここに至って、
第二幕の船長の顔が校長先生の顔に酷似しているとされ、そして、彼を取り囲む
法廷の風景がキリストの受難劇になぞらえられていた、そのアイロニカルな理由も
明らかになる。

 「私」を「マッカウス洞窟」に案内して、食人者の船長を「凄い奴」と言って笑った
中学校長は、いわば、食人行為を自分とはまったく無関係なことと信じていられる
無垢な人間の見本である。他人からであれ、自分からであれ、罪を告発されたことの
無い人間だけが、罪に対して無垢でいられる。だから中学校長は、凄惨な食人事件
を無邪気に、明るく、笑いながら話すことが出来る。したがって、物語の結末で全
員の背後に罪のアウラが浮かび上がるのは、他でもない船長自身が、あなたたちは
「立派な人間」であると全人類を逆告訴したことから導かれる必然の帰結なのであ
る。他方、キリストは、そうした法の告発を完全にわが身に引き受けて、無実であ
りながら全人類の罪を背負い、処刑を受け容れた人間である。

 船長は、ひとたび罪を訴追されたからには、もはや無垢ではいられず、かといって
法の有罪宣告を全面的に受け容れることも出来ず、法の残余としての「我慢」の領
域において裁判を空転させ、自分だけの内面的な無罪を確保しようとする。しかし、
ひかりごけのアウラが全人類の背後を照らしていると知ったからには、もはや食人
行為を、法律を超えた人間の聖別の証と見なして、法の残余の領域を維持しようと
することさえ許されない。彼は、校長のいる無垢の世界に帰ることもできず、
キリストのいる有罪の世界に行くこともできず、その両者のあいだで宙吊りに
なりながら、俺を法の届かない無罪の人間と認めてくれと叫ぶことしか出来ない。

 『ひかりごけ』の救済不可能性とはそんな風に理解されなければならない。
たとえ、武田泰淳自身の思惑を越え出てしまうとしても、である。さもなくば、
切除した性器を調理して食し、なおかつその様子を見世物にするイベントが話題を
博すこの現代において、『ひかりごけ』は、もはや何のアクチュアリティももては
しない。今の時代、食人は、もはや消滅しつつある犯罪でも、嫌悪の念をもよおさせ
るものでも、文明人の尊厳をゆるがすものでもない。武田泰淳が『ひかりごけ』を
執筆するにあたって依拠した前提も価値観も今やまったく無意味になっている。

 だから、『ひかりごけ』を通してなお思考すべきことが――『ひかりごけ』に対
してなお演出すべきことが――読者に残されているとすれば、それはむしろ、
食人が完全に陳腐化して、合法とされ、人肉食の領域が法律の領域の内部
に吸収され尽くして、文明人がもはや食人を珍奇とも残酷とも感じなくなったとき、
何も我慢すべきものがないがゆえに何も我慢できない生を我慢するとは、いったい
どういうことだろうかという問いなのだ。

(横道仁志)


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